今も残る戦国武将の名残
命乞いしないのだ、スネえもん!(愛知県新城市)
信玄の死後、武田を裏切り徳川に寝返った奥平貞能の長男、貞昌の居城、長篠城がいよいよ勝頼により落城寸前の時、家臣の鳥居強右衛門と鈴木金七郎重政が岡崎の徳川家康に援軍を求めに長篠を脱出した。家康、信長の援軍の約束を取り付けたスネえもんは家康が休んでいくようにいったのだが、援軍が来ることを一刻も早く城内に知らせなければならないので直ぐに長篠に引き返す。鈴木某はお言葉に甘えて岡崎に残った。
スネえもんは長篠城に戻る途中で武田軍に捕まり、援軍が来ないと城に向かって叫ぶように命令されたのだが、援軍が来ることを城内に告げ、はりつけになって処刑された。長篠城の兵士達の士気は上がり、援軍もやってきて、武田軍は敗戦し、つづく設楽原の戦いでも破れ武田滅亡のきっかけとなる。
勝頼はスネえもんの行動に感心し、その家臣もスネえもんのはりつけの姿を絵に描いて、自分の旗印にした。武士たるものこうでありたいと思ったのだろう。今に残るスネえもんの絵の元はこの時の絵だ。スネえもんもすばらしいが武田もたいしたもんだ。余談だが、赤穂浪士で討ち入りに加わらなかった者がいたのだが、その子孫は世間に臆病者、裏切り者呼ばわりされて士官が出来なかったそうだ。その反面討ち入りに加わった子孫は優遇されたらしい。スネえもんの子孫も家老になったり優遇された。
大東亜戦争中はスネえもんの行為は、東条英機閣下の軍人として取るべき行動を示した「戦陣訓」に相当すると言うことで学校などで子供達に軍神のような感じで教えた。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」というのが「戦陣訓」にある。スネえもんは恥ずかしいとかでなく味方が勝つための行動で結果命をかけたのだ。






ご存じ山本勘助と、なぜか今川義元の墓参りをする(豊川)
愛知県豊川市は、あの風林火山の山本勘助が養子に行った地である。ここには勘助の墓がある。また、勘助の屋敷の近くの長谷寺には、勘助がいつも身に付けていた摩利支尊天像が祀られている。数年前の大河ドラマ「風林火山」のときに、この像のレプリカを作るためにNHKが取材に来たのを期に、それまで普通に置いていた摩利支尊天像を立派な塔に入れて飾るようになったと和尚さんが言っていた。また、この寺には勘助直々の書がある。こういった書は、だいたい経理関係や御礼の書である。私が適当に「この度は○○を賜りまことにありがとうございます。」と読んでいたら、この書の内容を知っている人が、読めるのですか?と驚いていた。
勘助の養父の屋敷跡から少し豊川駅方面の線路沿いを西へ行くと今川義元の墓がある。どうしてこんな所に墓があるのか長谷寺の和尚さんに訊くと、桶狭間の合戦で信長に討ち取られた今川義元を、首は討ち取られていたので胴体だけを駿河に運ぶ途中、胴体が腐敗してしまい、この地に墓を作ったそうだ。豊川は当時、今川氏の勢力圏内だったので墓を作ることが出来た。余談だがNHK大河ドラマの「八重の桜」の山本八重は山本勘助の山本家の家系である。山本家は武田家が滅んだときに会津の方へ逃げたらしい。更に言うと山本五十六もこの山本家の家系である。
余談の余談だが明智光秀の明智家の家系には桜吹雪の遠山の金さんがいる。






武田勝頼の墓参りをする(山梨・景徳院)
人間落ち目になると打つ手打つ手がうまくいかないものである。それは本人の能力だけではどうにもならない。天も敵になるのだ。長篠の戦いに敗れ、高天神城も落城し、落ち目になった勝頼は信長の追っ手を逃れて、甲斐の天目山で妻と子と共に自害した。勝頼も決して凡人ではないが、家臣による内部告発や信玄と比べられてどうしても家臣領民を掌握できなかった。信玄餅はあるのに勝頼餅はない(あったらすまん)のもそのせいだろう。ちなみに家康の長男、信康には信康餅がある。信長とも和平を画策したが、信長に命乞いは無駄なのだ。だから明智光秀は本能寺で信長に討って出たのだ。決して裏切り者ではない。やらなければやられるのだ。落ち目になった者が命乞いしても無駄なのだ。だったら最後まで戦わなければならない。さもなくは逃げるだけ逃げるのだ。
その後徳川家康が山梨の大和村に勝頼と妻子の菩提所(現在の景徳院)を建てた。家康はフォローが上手い。長生きの秘訣である。愛知県や静岡県の家康ゆかりの地では戦没した武田軍を祀る供養塔や踊りが現代も残っている。一説には家康はとても臆病で死んだ武田軍の霊が怖かったともいわれている。人間、臆病で結構。そして最後まで戦うのだ。





