菊川駅のそばに明治に煉瓦で建てられたお茶の倉庫がある。今はもう使用していないので市では取りつぶして、市民の憩いの場を作る計画がある。現場を見ると、憩いの場を作るには土地が狭いと思うし、取り壊さないで欲しいと思っている市民もいる。潰してしまうと取り返しがつかない。将来修理する機会もあるかもしれないし、危ないようなら立ち入り禁止にすればいい。このような建物が廃墟化してみっともないと思うのは間違いである。歴史がそこに存在するのだから。以前、江戸時代にお殿様から拝領したといわれる蔵を見たことがあるが、いつの間にか取りつぶされていた。私の町にあった、慰霊碑が取り払われ、新しい家が建っていた。豊川にあった古い立派な病院が今風にリフォームされていた。このような事を目の当たりにするたび、もったいないなぁと思う。歴史を疎んじるのは、その歴史に関わった先人をも疎んじることにはならないか?予算云々を言うなら、放っておけばよい。廃墟になるかならないかを、今決める必要はない。
愛知県の渥美半島の入口を少し行くと海沿いに大塚遊園があった。実はここのオープンに係わったので一度遊びに行ってみたことがある。当時は渥美半島も観光スポットで人気がありこの遊園地の他に伊良湖フラワーパークや観光農園や個人のテーマパークなどが目白押しだった。昭和の家族連れはサイクルモノレールとパターゴルフがあれば、弁当持参で結構楽しんだものだ。デイズニーランドに何回か行ったことがあるが楽しかったとは思わなかった。そういった場所より小さな遊園地とか公園とかのほうが思い出に残ってる。デイズニーランドは楽しさの覚醒剤のような物で行っても行っても心が満たされない。子どもや奥さんは大喜びだがそこに家族の触れ合いは無い。そんな場所より大塚遊園のような場所で妻の粗末な弁当を食べる方がよっぽど家族の幸せを感じるのだ。人生の終末に思い起こされるのはミッキーに微笑む娘の顔で無く、どうと言うことの無い観光地で家族がのんびり過ごしたひとときである。3才ぐらいのときに父親に駄菓子屋に連れってってもらいインチキのクジをやったことがいつまでも記憶に残っている。サイクルモノレールで大喜びの子ども、パターゴルフで家族にいいところを見せようと頑張るお父さんがこの遊園地にいたのだ。
愛知県半田市に、明治時代の赤煉瓦の大きなビール工場がある。現在は使われていないが、戦時中は中島飛行機の倉庫として使用されていた。その為、ここは硫黄島から来た米軍の戦闘機による機銃掃射の標的にされた。
浜北森林公園の山を北に登っていくと四大池に着く。山の頂上が「太平洋富士見平」だ。昔はそこそこの観光地でホテルまである。現在では廃墟になっている。廃墟というのは人の一生に似ている。その建物の人生がそこに垣間見られるのだ。
浜松は戦時中の空襲の影響で昔ながらの建物があまり残っていない。前の市長が以前市内の景観について残さなければならないものは残さなければならないが、古い建物等貴重なものはあまり残っていないというようなことを言っていた。そして浜松には昭和の風景がどんどん無くなっていった。 浜松は古い物は少ないがその分新しい物をどんどん吸収して発展していった。そんな浜松だが空襲でも松菱百貨店だけは残ったというのがいまだに年寄りの間では語り種だ。昔新聞かなにかで焼け野原の中にたたずむ松菱の写真を見たことがある。昭和40年代の高度成長期、浜松市民が「街にいく」と言ったら大抵松菱へ行ったものだ。 今でこそ街中や郊外にいろいろ大型店が出店してるが当時は松菱ぐらいしかなかった。そこで若者は最新のファッションを、奥様は高価な品を求め、子連れは屋上のミニ遊園地で遊んだ。この屋上には今はどうしても食べたい逸品として「松菱のアイス」があった。普通のアイスほど甘くなく、少しシャーベットぽくもありどこにもない味だった。似た味としては清里の清泉寮のソフトクリームを安い材料を使ってあっさりさせたような味だ。子供の頃は良く通ったのだが、高校生ぐらいになると行かなくなった。今さら松菱なんてというような感覚が若者にはあった。それでも年寄り達は百貨店というとやっぱり松菱であった。その松菱の隣に ヤマタカとかいうおもちゃ屋さんがあり、ここではたまにイベントとして怪獣が来たりしていた。ウルトラセブンのカプセル怪獣ウインダムと握手したとき、べとべとしたのを覚えている。 子供達の遊び場としては児童会館があった。今では場所を移し科学館となっている。児童会館では数十円の入館料で1日遊べた。なんと映画館もあるのだ。映画はたしか無料でゴジラシリーズやサイボーグ009などを見た記憶がある。当時としては未来を想像させるテレビ電話とか、へんなロボットとかもあった。別料金でプラネタリウムを見ることができるが、私達の間では、当時ここでプラネタリウムを見ることができた子供はお金持ちということになっている。浜松城近くには市営プールや動物園があり、子供が楽しむものはなんでも街中にあった。 大人になって会社が街中にあったので、よく昼休みとか松菱のアイスを食べに行ったが、あるときそこのおばちゃんに前のアイスはもうないよといわれた。普通のソフトクリームに変わっていたのだ。松菱友の会では会員に無料コーヒーをサービスしていたのにいつの間にかそのサービスもなくなった。私の母はそれを楽しみしていたのだが。松菱は建物を大きく立派にしたが、私達家族には魅力の無いものとなってしまった。 聞くところによると戦時中、米軍は東京や名古屋など、都会への空襲で余った爆弾は浜松に捨てておく(空から捨てるので空襲と同じ)決まりになっていた。大迷惑である。 今更ながら児童会館を懐かしむ展示会が復興記念館で催されている。懐かしむくらいなら文化として残しておくべきだったのだ。なんだかんだ言って展示会に行ってきた。