戦争遺跡特集(静岡)

旧陸軍の砲弾テスト場「遠江射場」大東町(現掛川市)

 高天神城で有名な旧大東町の太平洋側に旧陸軍の「遠江射場」がある。ここで砲弾の性能を調べていた。建物が民間に払い下げられ、農家などが物置とかに使っていたり、茂みの中にそのまま建物が残ったりしている。連合艦隊をここで迎え撃つのかと思ったら、通りがかったおじさんにテスト場だと言われた。

大井川笹間渡発電所(島田市川根町笹間渡)

 太平洋戦争時、大井川にあった軍の工場に電力を供給するために大井川笹間渡発電所 が作られた。現在ではその場所で茶畑を営んでる方の倉庫となっている。私は発電所までの道が解らず川根温泉の道の駅から河原を歩いて川の中を水浸しになって渡ってきた。茶畑で作業しているおじさんに写真を取らせて下さいというと、どうぞどうぞ好きに中に入っていいよ。と、いってくれた。ずぶ濡れの私を見て、その格好で来たのか?と感心された。他に道は無いかと聞くと、そのおじさんも腰まである長靴みたいなの(釣りの人が使ってるやつ)を履いて川を渡ってくるといっていた。
 山側に当時は道があって、オートバイも通れたそうだが現在では道が崩れていて通るのが大変らしい。それでも水かさが増えているときはその山側を通ると言っていた。帰りは濡れるのがいやなので山側の道を通ることにした。が、とても通れるものではなく結局すべって山から落ちた。足に蔦が絡まって助かったのだが、なんだか上に戻るのがめんどくさくなって蔦を切って滑って落ちた。人間、ここ一番ではあきらめが付くもんだと感心する。足を引きずりながら道の駅に戻った。

兵隊さんのいる寺~藤枝市岡部町「常昌院」

 敵の陣地の中堅ぞ先ず首山堡を乗っとれと三十日の夜深く前進命令たちまちに下る三十四連隊橘大隊一線に」と、軍歌にも歌われた、軍神、橘周太中佐率いる静岡歩兵第三十四聯隊は、日露戦争初期最大の激戦首山堡(しゅざんぽう)の闘いで勝利するものの、23,615名の死者を出し、橘中佐は戦死する。
 さて、この静岡歩兵第三十四聯隊に入隊し戦死した地元の兵隊さんの人形を作って祀っているのが藤枝市岡部町の常昌院である。一体一体本人を参考に作られている。現在陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘連隊と呼ばれている。
以下、第34普通科連隊のホームページより
 第34普通科連隊は静岡県御殿場市の板妻駐屯地に駐屯し、主に静岡県(伊豆半島南部を除く防衛・警備・災害派遣を担任しています。
 連隊は過去に静岡県に駐屯していた旧陸軍歩兵三十四聨隊の部隊番号を、地域の方々からの要望により、そのまま受け継ぐ形で創設された郷土部隊としての特色を持ち、「燎陽城頭・・・」の軍歌にも歌われた、橘中佐が生んだ岳南精神「矢弾
飛び交うもとで人間愛、戦友愛、難局における献身的行動」を継承し、創設以来47年間、地域と密着した34連隊を目指して日々の訓練に励んでいます。
 連隊は、災害発生時の各自治体等関係機関との連携を常に保持するため、静岡県や各市町村等での防災訓練などに積極的に参加し、自隊でも防災図上訓練や総合防災競技会などを行い、災害対処能力の一層の向上に努めています。
 連隊はこれからも地域に根差し、有事に即応する部隊であり続けるために努力していきます。

兵隊さんのいる寺~南知多郡「中之院」彫刻家 浅野祥雲作

 昭和12年、支那事変(日中戦争)の引き金になった、北京の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍との衝突があり、名古屋第三師団歩兵第六連隊の隊員が急遽上海へ向かう。緊急の出動のため夜中の行軍、長い船旅など、ぎりぎりの状態で上海の前線に到着し、ほとんどが全滅してしまう。ご遺族が戦没者一時金で名古屋市の月ヶ丘に昭和12年から18年にかけて建立した。これらの像はコンクリート彫刻家の浅野祥雲が写真を元に本人に似せて魂を込めて制作した。その後、像は平成7年に愛知県南知多郡の「中之院」に引っ越した。 
 戦後進駐軍により取り壊されそうになった。この像を壊すことは、再び彼らに死を与えるに等しいと、当時の僧侶の命がけの抗議でなんとか取り壊されずにすんだ。

少年戦車兵の戦車、サイパンより帰還(富士宮市)

 富士宮市にある、陸軍少年戦車兵学校跡には、ここから出発した九七式中戦車(チハ車)をサイパンから帰還させて祀ってある。少年達の英霊を祀ってある若獅子神社の掃除をしてたおじさんによると中学校を出たばかりの少年600人以上の犠牲者を出し、生きて帰ったのはわずか20人余だった。
 この戦車はサイパンでの戦いで使用。砂浜に埋まって頭だけを出して攻撃したそうで、昭和50年サイパンの砂浜に埋まっていたのを持ち帰ったそうだ。整備をしていると中に軍刀と遺骨があり、その身元が判明して茨城だか埼玉の遺族の実家に持っていったそうだ。この学校にあった資料なんかは進駐軍に没収されて今はあまりないとのこと。学校の門が今も残っているが、場所は移設したらしい。