60年に1度、タライのような大きなボタンの花が咲くと言うことで有名な京丸の里が静岡県浜松市天竜区春野町にある。 平家の落人が住みついた…京都の人が住んだ…ということで京丸というらしい。一族全てが藤原家で、いまでも家が残っている。伝説では落ちのびた姫が持っていたボタンが咲いたとか、この里の娘と信州の花火職人の青年とがいい仲になったが、決して他人にこの里のことを知られてはいけないと言うことで反対され、心中したとか、色々ある。大きなボタンは花火職人の青年が打ち上げた花火が川に映ったのだろうとも言われている。 南北朝の時代、後醍醐天皇の孫、尹良親王(ただよししんのう)が落ち延びて、静岡県浜松市天竜区春野町の京丸の地に身を隠したといわれている。尹良親王は信州で死んだとされているので、確かなことはわからない。ただ、尹良親王の父親は静岡県浜松市の井伊谷にしばらく居たらしいので、まんざら遠州の地に関係なくもない。現在では藤原家1件のみ現存するが人は住んでいない。藤原家はこの地で後醍醐天皇の首をお祀りしていたという伝説もある。落人の伝説は全国に様々ある。例えば、牛若丸の源義経は実はモンゴルに渡りジンギスカーンになったとか、豊臣秀頼は実は生きていて、その子が天草四郎となって幕府を苦しめたとか。人気のあった人物が時の権力者によって滅ぼされるのが忍びないということから、そのような伝説が庶民の間で生まれたのである。また、自分たちの住む村にも、そのような歴史上の人物と何かしらの関係があったと思いたい心理もあるだろう。関係ないが、以前私の妻が町内のお祭りで、町内の○○さんの先祖は徳川家康と親交があったという話を聞いてきて、「○○さんの家は凄い」と、しきりに感心していた。なるほど、こんな町にもそんな話があるのだから全国には数限りなく「有名人おらが村伝説」があるのだろう。
宇連ダムのある鳳来湖の上流に宇連集落があった。昭和22年には神田小学校宇連分校が開校したが昭和42年には廃校となっている。廃校の前年度の生徒数は3人であった。宇連ダムの竣工が昭和33年なのでダムによって廃村になったわけではなく元々過疎の村であった。
宇津の谷の集落で地元のおじいさんから今の蔦の細道は場所が違うと聞いた。どこそこのだれだれの墓が昔蔦の細道にあって土砂崩れで今あっちの方に置いたが、元あった場所は覚えているが、今の蔦の細道の場所では無い。市役所に行っても取り上げてもらえなかった。私がどの辺りにあったのですかと聞くと戦時中の話になり、昭和19年宇都ノ谷峠で米軍の艦隊を狙っていたのだが、情報ではあちらは100万の大軍で、こちらは6万でとてもかなわない。それでも撃とうとすると、こちらの場所が米軍にばれてしまい、一斉攻撃を受けて村は全滅するから、1発たりとも打つのはまかりなんと上官に言われ、敵を目の前に1発も撃てずとても悔しい思いをした。 そこで峠を下りると明治時代のトンネルの中に山ほどの弾薬が積まれていた。とても悔しかった。とのこと。で、私はそれは悔しいでしょうね。ところで蔦の細道にあったお墓は誰の墓でしたか?と聞くと、蔦の細道でのたれ死んだ人らしい。続けて聞くと終戦の話になり、そのころ銚子にいて、銚子では茶畑が平野で舟で運んでいて、こちらでは山の中で段々畑でリヤカーで運んでいたので(おじいさんは茶畑の農家の長男)うらやましかったが、茶摘みはなんとハサミで切っていてとても能率が悪い。そこで手積みの方法を教えてあげたら村長にえらく感謝されたらしい。 そんなこんなで終戦を迎えたそうだ。私は、ああ、それは地元にいいことをしましたね。ところで蔦の細道がと聞くと、トンネルに弾薬がいっぱいあったのに1発も打てなかったという話になり、私が、ああ、それは悔しいでしょうねと言って、そのままその場を後にしたのだった。
浜北森林公園の山を北に登り四大池を過ぎ、山を下り更に北上すると堀谷の里に出る。ここの徳泉寺には木喰上人の作った木像が外に展示してある。こんな山奥の小さな寺に素晴らしいお宝があるもんだと感心する。