松平家の始まりと国主徳川家康のはじまり

徳阿弥の像

松平郷

戦国時代の領主の家柄と云うのは、平家源氏の出身と偽るのがほとんどである。では、松平家の出自は、三河の出であると知っていたが詳しく知る必要もなく今日まで過ごしていた。ある日我が家の書物の中に以前購入した司馬遼太郎の『歴史を紀行する』の文庫をなにげなしに目を通していたら『忘れられた松平家のふるさと』と云うテーマの中に松平家のルーツが載せられており知ることとなった。私の好きな作家である司馬遼太郎氏だけに是非同じ場所に訪れてみたい気持ちが強く私の心を動かした。早速パソコンで松平郷までのルートを検索すると岡崎市内より北へ約三十キロ行ったところに松平と云う地名がある。訪れたのは夏の残暑が厳しく残る九月中旬で真夏日の様な日であった。岡崎インターより国一号線を西へ向かうと足助方面と書かれた道路標識に沿って県道39号線を進み、途中からは巴川沿いに沿って北へ約二十五分程で松平への入口となる九久平の交差点に着いた。交差点を右折して五分程で松平家のふる里である松平神社に着いた。神社前には鳥居があり神社は山を背にしてあり境内全体を見渡してもあまり広くはない。ではここに祭られている松平家の始祖とはどの様な人物であっただろか『司馬遼太郎氏の書かれた内容を紹介すると』松平家の遠祖は決して名家の出ではなく漂泊の聖遊行僧であったとある。この遊行僧は室町時代の乱世にはこの様な遊行僧が多く、時宗と云うなんの戒律もない宗旨を奉じ、南無阿弥陀仏を進めて歩く一種の賤民で村々の郷家に逗留して、先祖の供養、諸国噺し、時に色噺をして村人達を悦ばせたりして過ごし、飽きるとまた別の場所へと移動していつどこで果てるか解らない一生を送るのである。この様な聖遊行僧が三河の国、松平郷に流れてきたのが徳阿弥と呼ばれ
る僧であった。ところが徳阿弥は最初から松平郷に来たのではなく同じ三河の坂井と呼ばれる村に来て、郷家である酒井家に数か月逗留し、酒井家の娘か後家と情を通じて子供を産ませている。この当時遊行僧のこの様な行為は珍しいことではなく、俚謡にも『高野聖に宿かすなむすめとられて恥をかく』と云う謡まである。その後松平郷に来た徳阿弥は全国を行脚するだけに世情に訓しく才知弁舌に優れた僧であった。世事にうとい村人にとっては大変ありがたい僧と敬った。徳阿弥は松平家の郷家である太郎左衛門と云う屋敷に出入りしている間にそこの娘と情を交わし子を産ませてしまった。太郎左衛門家ではしかたなく徳阿弥を婿に迎えて相続させ、徳阿弥は、髪を伸ばし松平氏親と名乗るのである。この氏親が松平家の始祖と成るのである。先に産ませた酒井家とは強い絆で結ばれ、徳川家が天下を収めた後も酒井家は、譜代大名の中でも別格として大老の地位が約束された家柄となるのである。『歴史を紀行する』より抜粋一部改編

神社より歩いて五分程の所に松平氏の菩提寺高月院がある。本堂左手奥に松平氏の墓所があり、松平氏親、二代泰親、四代親忠夫人の墓がある。
松平郷は、山の中である。土地は痩せ村人達は、狩猟を生業として暮らしていた。初代氏親は、川筋にでて豊沃な三河平野へと野望を抱くも成し得ず、二代目泰親は初代の志を継ぐもうまく行かなかったが周辺に住む者を巧みに手なずけることに成功する。三代目信光は山中を押し出し、足助川の渓流沿いにある岩津城を攻め落とした、文明三年平野の城である安祥城を落とし、この勢いに乗じて岡崎城も奪った。以後岡崎城は、九代目家康に至るまでの三河松平家の策源地になるのである。三代目信光は、精力に満ちた人物であったらしく多くの女性と接し八十五年の生涯で四十八人の子供を得た。この信光の多産が近隣の豪族に婿養子や娘を嫁がせたりして松平家の勃興させ勢力拡大を図った。四代親忠は、さほどのことなし,五代長親はいまだ小勢ながら周辺国と衝突し苦戦を繰り返していた。六代信忠は、暗愚で勢力は後通し岡崎を奪われる。七代清康は、天才的な武将で岡崎を奪い返している。しかし西三河に?左した頃清康は、家来の乱心者にころされてしまう。これが『守山崩』と三河で云われる事件後松平家の勢力は後退する。八代広忠は、父清康の能力はなく凡庸であった。広忠は、父が殺されたときはまだ幼少であったことにより、西の織田信秀(信長の父)は三河の様子を知り、八千という大軍にて岡崎城を攻めた。一方松平軍は、その十分の一の八百人しか動員力がなかったが三河人の気質と云うか、八百人の軍勢は全て死を覚悟して幼君広忠に決別すべく拝謁し、織田軍に迎え戦った結果、八千の織田軍は総崩れし退却してしまったが、親族の内で織田に通じるものがあり、弘忠は岡崎城から逃げ出て身分を隠しながら遠州まで逃れた。後に今川氏の養護で岡崎城を取り戻すが、八代広忠も亡き父の清康と同様に家来の乱心にて殺されてしまう。年二十四才であった。一方九代目家康は、この当時織田家に人質として捕らわれていたが後に今川家に人質としてうられていく、松平家は、国主が居ない状態で家康は松平家の九代目当主となる。今川に人質として捕らわれの身と成った家康は八歳から十九才までという人間形成期を駿府ですごすのである。その後家康が岡崎城に国主として戻るのは、今川義元が織田信長に桶狭間で敗れた後に戻るのである。その後家康は織田信長の傘下となり幾多の戦の後天下人となるのである。参考文献(歴史を紀行する)司馬遼太郎著書より

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