三方原の戦いで武田軍に追い込まれ、どうにもこうにもならなくなった徳川軍は、犀ヶ崖に武田軍を追い落とそうと、崖に白い布を張り、丈夫な橋が架かっているように見せかけ、夜半になって、浜松城の近くにある普済寺に自ら火を放ち、浜松城が炎上していると見せかけておいて、浜松城内に残っている鉄砲を集めていた、大久保忠世、天野康景らが犀ヶ崖付近の間道を通って武田の陣営の背後にまわり、鉄砲を撃ち込み、夜襲をかけた。不意打ちをかけられ、逃げ場を失った武田軍は狼狽して、犀ヶ崖の谷底へ転落して、どうにかこうにか武田軍を追い払った。 現在、犀ヶ崖資料館となっている宗円堂には、三方ヶ原合戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるために、毎年 7月15日に犀ヶ崖において、遠州大念仏が行なわれている。一説には死んだ武田軍さえ怖い家康が霊を鎮めるために行ったともいわれている。
以前奥さんのお兄さんのお供で首都高速を走らされたことがある。初めての首都高でおろおろする私に兄さんが、おまえは水窪か、と言った。これが浜松人の水窪への認識である。聞くところによると水窪賃金なるものがあり、浜松に合併してから水窪人だけは賃金が安い会社もあると聞く。 民俗学者の柳田国男は田舎にこそ日本の文化が残っていると言っている。文化とは精神面も含めてである。そんな水窪は長野県南信濃との県境に位地する山と清流に恵まれた自然豊かな町である。町の歴史は古く古代より交易街道の地として栄え、平安時代には都に屋根材の杉皮を供給し、江戸時代には町は天領地に指定され、江戸幕府への木材の供給先としていた。 今も町には南北に縦断する秋葉街道又は信州街道とも呼ばれる街道が残されており、街道は古代には相良からの塩が長野県方面に向けて運ばれ、長野の和田からは黒曜石が運ばれた。戦国時代には武田信玄の覇権の道として遠州へ、江戸時代には交易の道、また信仰の道として多くの旅人の往来で賑わう南北交流の地として栄えた。 昭和のはじめまでは秋葉参りの往来が多かった北遠地方も鉄道や車の近代化とともに交通事情も変化しその数は激減していった。代わりに町は木材産業が盛んとなり昭和30年後半まで活気を呈していたが、その後は輸入木材に押されその勢いを失っていった。また同年代の昭和35年頃から38年までは佐久間ダムと秋葉ダムの建設がはじまりこの時期の水窪は木材とダムに働く人々が集まり町には盛り場をはじめ店は大いに繁盛した。ところがダム建設が終えると町は潮が引くように働く人々は居なくなり町は急激に活気を失っていった。又、随分昔から三遠南信道が水窪市街付近を通ると言っていたのだが、市街から大きく外れてしまった。三遠南信道が通れば町が活気づくと思っていた水窪市民はがっかりしただろう。 さて、高根城は天正4年に廃城するまで、武田信玄にとって重要な城だった。現在高根城は城内道が完全に残っており、当時の戦いぶり、暮らしぶりがまさに手に取るように解る全国でも例がない貴重な城址である。水窪では町をあげて高根城を復元した。高根城への道を地元のおばさんに聞くと、「あれは偽物だからそんな期待しないで。」「偽物で無く復元でしょ。」「ああ、復元ね。」そんな会話のあと、山の頂上を指さして高根城を教えてくれた。あとでこのおばさんの発言こそ水窪人気質だと感じることになる。
おなかがすいたので水窪商店街にある小さな食堂に入る。昼なお暗い店内に少々びびるが奥からおばちゃんが来てカツ丼しかないという。下の通りには国盗り(地域おこし、村おこしのお土産、お食事の店)があってそこでそばを食べられるよと言われたが、いまさら店を出るわけにも行かないのでカツ丼を頼む。大盛りね、と言われたが普通にして下さいと答えた。私の体格を見ていったのだろう。こんな場所のカツ丼なので期待してなかったのだがちゃんとカツを揚げるところから作っていた。おばちゃんはこんな店でもうしわけないというように、地元の「とじくり」というお菓子をくれた。米粉とそば粉と大豆で作ってあり香ばしくて美味しかった。昔はおにぎりぐらいの大きさで丸めて囲炉裏に放り込んで焼けたらすすを払って食べたという。水窪のお茶は美味しいよと言ってお茶を出してくれた。昔ながらの苦いお茶で本当に美味しかった。おばちゃん唯一の自慢である。さて、カツ丼ができた。おばちゃんは、うちのカツ丼は甘くないのよ。と悪そうに言った。とんでもないです、結構いけます。そのうちとろろ昆布のお吸い物を出してくれた。至れり尽くせりである。お勘定は600円だった。 ああ、こんな店なのに満足したなぁと思ったときに、私は何でこんな店だと思ったのだろう。前述の浜松人の水窪に対する認識が私にもあったのだ。おばちゃんはとても謙虚だった。そういえば高根城への道をきいたおばさんも、わざわざ遠くからこんな所に来て頂いて期待外れだったら申し訳ないという感じで、高根城のことを偽物だから、と言ったのだろう。 商店街を見るとゴミ一つ落ちていなかった。
愛知県設楽は、武田信玄上洛途中、野田城で鳥居三左衛門に撃たれた傷が元で死んだと言われる地である。信玄亡き後、勝頼は徳川・織田の連合軍に、長篠での戦いに敗れ、設楽ケ原の戦いでも多大な損害を出すことになる。この戦の結果が武田家滅亡のきっかけとなる。 この戦いの場所に新城市設楽原歴史資料館があり貴重な資料が展示してある。その近くで武田軍の慰霊を祀る信玄塚を掃除していたおばさんによると、戦いの後は村中死体だらけだったと、先祖代々語り継がれているそうだ。毎年お盆には死者を供養するための火祭り「火おんどり」が400年以上も行われている。この地に武田の霊が出るので、家康が霊を鎮めるために行うようになったとか。 この祭りには遠く武田の地、甲斐からも大勢の人が来る。祭りの日、地元の若者が信玄塚に座って焼きそばを食べていたら、武田方の人に怒られていたとの証言も得た。はずかしいことである。
徳川と武田の厳しい攻防戦の末、天正9年3月、高天神城は落城した。武田軍の軍監横田甚五郎尹松が本国の武田勝頼に落城の報告をするために通った険しい道を「甚五郎抜け道」と言われるようになった。別名「犬戻り猿戻り」と言われるくらいの難所だった。どのくらい難所か通ってみる。2回転んだ。ほうほうの体で引き返す。 近くには高天神城がまだ徳川の城だった頃、徳川家の軍監大河内正局が武田軍により攻め取られた際、8年間閉じ込められた石窟がある。
諏訪原城跡は、戦国時代の東海道における戦略上の要地に位置し、はじめ武田信玄が砦を築き、その後天正元(1573)年、遠江侵攻の拠点・徳川氏に対する備えとして、信玄の子 武田勝頼が家臣 馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)に命じて、牧之原台地に築いた山城です。 天正3(1575)年に徳川家康によって攻め落とされた後、「牧野城(まきのじょう)」と改名され、今川氏真や松平家忠らが城主となりました。